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笠 智衆、北林 谷栄に 祖父母の面影を見る

私は映画をよく観ます。人の生き様を描いた映画に、特に興味を惹かれます。少し前に、BSで小津安二郎監督作品の特集をしていて、友人が「東京物語いいから絶対観て!」って言うので、モノクロ映画にはあまり興味がなっかのたですが、テレビのチャンネルを合わせました。最初はあまりにもゆっくりした感じで、あくびが出そうになりました。しかししばらくたって、不思議と『東京物語』の世界に引き込まれてしまいました。笠智衆さん演じる平山周吉氏に、祖父の思い出を重ねてる私が、いました。『東京物語』は老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が、広島県尾道市から長い時間汽車に揺られて子供たちの暮らす東京を旅しますが、迷惑がられて、子供の家を転々とします。「熱海に行って遊んどいで」と二人をもてあましていた子供の言葉に嫌な顔も見せず、喜んで熱海に行ってはみたけれど、旅館は朝まで騒ぐ客ばかりで、ゆっくりと寝ることも出来ないありさま。でも、笠智衆さんは「東京旅行は、よかった。よかった」と言うばかり。
私の祖父(母の父)は、佐賀県杵島郡福富村(現福富町)立福富小学校の校長、定年退職後は村長を務めた人で、子供は男三人女三人の計六人。長男は、長崎の原爆で亡くなり、三女の私の母は東京から大分市、三男(末っ子)は福岡市に住んでいて、後の三人はすぐ近くに住んではいるが、老夫婦二人で暮らしていました。
 私は生まれて四歳まで暮らした佐賀に帰った時は、祖父母の家に泊まり、小学校卒業まで祖父と一緒にお風呂に入っていました。ぬるめのお湯にゆっくり入れてもらって、原爆で亡くなった長男のことなど、昔話をよくしてもらいました。洋一郎叔父さん(長男)は、旧制佐賀高校で秀才の誉れ高く、東大の法科に行くか、長崎大の医科に行くかで悩んだそうです。「東京は空襲が怖いから行くな」という両親の助言で長崎を選んだのですが、運悪く、原爆の犠牲になってしまいました。洋一郎叔父さんの親友は、東大の法科に進み後に警察庁のトップになりました。とても皮肉な運命です。祖父母は、洋一郎叔父さんが亡くなったのは長崎大進学を勧めたのが原因だと、自責の念にかられ、庭に供養塔のようなものを作ったり、洋一郎叔父さんが佐賀高校時代に書いた『葉隠れについての論文』を本にして、親戚知人に差し上げたりしていました。
その祖父は、見た目も性格も?笠智衆さんのような雰囲気で、興奮したり人の悪口を言ってるのを聞いたことが無い位、いつも穏やかでした。食事は健康のために腹八分を、心がけていました。
私の祖母(母の母)のことで思い出されるのは、亡くなる前入院していた頃、見舞いに来た私を見て、私の父と勘違いし「芳包さん、えすか!(佐賀弁で怖い)」とおびえていました。娘の夫とはいえ、性格の強い父に注意されたことが度々あったのか、その記憶が、えすか!という言葉になったようです。そういう印象を持たれた父、その父に間違えられた私。いつ亡くなるか分からない祖母を前に、お互い顔を見合わせて、苦笑するばかりでした。
映画『阿弥陀堂だより』を見た時、暮らしぶりはかなり違いますが、おうめ婆さん(北林谷栄)の声、雰囲気が祖母によく似ているなと思いました。おうめ婆さんの言葉、忘れられません。「畑にはなんでも植えてあります。ナス、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ──  。
そのとき体が欲しがるものを好きなように食べてきました。質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら、それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです」「雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です」
貧乏は嫌です。でも自然に恵まれた所で、四季を感じながら穏やかに暮らせたら、質素な生活も苦にはならないかもしれません。
これから私も必ず老いていきます。『私が大好きなお年寄り達の様に、昔をしみじみと振り返りながら、何事にも感謝する』お年寄りになれたらと思います。       
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アスファルトが熱かった夏の日 中也に逢いに行った!

アスファルトの照り返しが、車のタイヤを焼き尽くすような夏の日、私は再び『中原中也』に逢いに、車を走らせる。もう三度目。山口市までの遠距離運転であるが、心の渇きがエネルギーになって、ハイウエーを猛スピードで走ることに、全然疲れを感じない。
私が『中原中也』に出逢ったのは、高校ニ年生の頃。それまでの私は、父の期待もあって、学歴偏重主義の申し子のような考えを持ち、受験勉強が唯一の生きてる証しであった。
高校受験の時、父の出身校の某有名私立大学の附属高校を第一志望にした。中学二年生までの勉強は、定期考査の前に一夜漬けする程度だった私が、目標が定まった途端、一分一秒惜しい気持ちが湧き、放課後は小走りに家路を急ぐ毎日を送った。努力の甲斐あって、模擬テストでは、合格圏内に入り、自信をつけて入試に臨んだ。しかし、結果は不合格。滑り止め的な、公立高校に入学することになった。その高校に入学後、第一志望に合格できなかった悔しさから、学歴偏重主義は、ますますひどくなった。今度はもっと上の?大学を目指そうと某有名国立大学を目標に、入学当初から、受験参考書を読みあさっていた。無理をしてたとは思っていなかったが、高校ニ年になって、病気をしてしまい、入院まではしなくてよかったが、自宅療養生活をするはめになった。受験に対する思い(空騒ぎ)の強さに、自ら疲れたというのが、実感であった。空虚な気持ちで、家で気だるい時を過ごしていた頃、父の書斎で目にしたのが、日本詩人全集22中原中也(新潮社発行)であった。
汚れつちまつた悲しみに──
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
(中原中也詩集『山羊の歌』の中から抜粋)
とても悲しい詩であった。
 この詩集を読み中也の生き様を知った私は、私より?挫折感を深く刻みながら、詩を生きてきた中也に傾倒し、中也が教えてくれた詩作に、いつしかのめりこんでいった。とても救われた気がした。
 その後、私は自分の弱さに押しつぶされそうになりながらも、もがきながら生きてきた。
いつしか父の仕事の関係で、海と山に囲まれた土地に住むようになった。この土地の大学を卒業し、工業系の教師になり家庭を築いた。平凡な幸せのために、せまり来る現実に追われる毎日、詩心も失いかけていた。但し、のどの渇きは『せまり来る現実に向きあっていなかった頃。詩作にのめりこんでいた頃』を、欲しがっていた。だからか?山口市の『中原中也記念館』に、車を走らせようと思った。

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きて たときの苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖
(中原中也記念館、幻燈機?『骨』抜粋)
今、私が大好きな詩だ。『僕の骨は、苦労には満ちていない』もうすぐ四八になる私だが、「四八には、とても見えない」と言われる。でも『僕の骨は、四八年間の僕の生きてきた証し』今は孤独ではない。慕ってくる者も多い。

静かです 男は静かな動物です
猛り狂うときは 酒を友とした時
 そして 君を頭がおかしくなるほど
愛した時
日なたぼっこは 男に似合うなあ
 回る縄跳びに 光る風のアクセント
見てる男は あまりにもさわやか
(二二歳の私の詩集『イタズラ事件』より)
アスファルトの照り返しの熱さの中でも、今は優しくなれる。

あの夏の日『宮大工にあこがれた』

今年も、四十名の子供たちが『君らの父ちゃん』の元を巣立っていきました。『君らの父ちゃん』とは、私が勝手に生徒に言ってることですが、四十七歳になった現在、常に父親の気持ちで生徒に接しています。
 但し、お調子者の私ですから、時には「先生、トイレにいっていいですか」「我慢出来ないの」「はい」「仕方ないな。じゃ行ットイレ」などと、親父ギャグを連発しています。
 時代遅れのつまらないギャグですが、生徒は笑ってくれます。ありがたいものです。気分よくして、ますます、ギャグを言いたくなるのは、我ながら困ったものです。生徒は、めがねを掛けて、いかにも真面目そうな私が、くだらないことを言うのが、面白いだけなんだと思いますけど。
今年の子供たちも、この厳しい社会情勢の中、子供たちの努力の甲斐あって、ほぼ目標通りの進路達成を成し遂げました。
子供の進路のことで、今でも記憶に残っていることがあります。それは十一年前、ある子供が是非とも宮大工になりたいと言ってきました。
 宮大工と聞いたとき思い出したのは、『西岡棟梁に弟子入りした小川少年』のことでした。修学旅行で奈良を訪れた小川少年が、西岡棟梁の家まで足を運び、弟子をとる気の無い西岡棟梁に門前払いを受けても、その後も何度も何度も訪れて「何故宮大工になりたいのか。西岡棟梁に弟子入りしたいのか」一生懸命お願いして、やっと弟子入りを許可されたという話です。
宮大工の仕事など、高校に求人がくるわけありません。知り合いの建設会社に聞いたり、ハローワークに聞いたり色んなつてを頼りました。努力の甲斐空しく、宮大工を育てる棟梁を探すことを半ばあきらめていた矢先、ひらめいたのが、文化財の関係機関です。藁をもすがる思いで、電話すると、奈良県桜井市の『瀧川寺社建築』を紹介していただきました。採用してもらえるかまだ分からないのに、涙が出る位、とても感激しました。その後、宮大工になりたいという本人の強い意志が認められて、採用していただきました。
五年前の夏、関西に企業訪問した折、大雨の中ずぶぬれになりながら、初めて『瀧川寺社建築』を訪れました。とても疲れて体は冷え切っていたのですが、高校のときの子供だった安東君がてきぱき働いている姿を見て、疲れは吹っ飛び体の奥から熱くなりました。
この年、久しぶりに是非とも宮大工になりたいという子供がいて、『瀧川寺社建築』で企業体験をさせていただいて、就職試験時には十名受験者がいた中、やる気が認められてこの子供も、採用していただきました。
我が高は県下トップを切って、四月二日に入学式を迎えました。私は久しぶりに、一年生の担任になりました。
入学式のホームルームで「中学のとき、勉強や運動が得意だった人不得意だった人と色々な人がいますが、高校のスタートラインは一緒です。一歩。一歩。共に歩んで行こう」と、心をこめて、話しました。
夢が持ちにくく、平和さえ侵されかねない世の中、楊志館の父として『あの夏の日、宮大工にあこがれて強い意志で実現した二人』の様な、逞しい若者を育てたいと思っています。
     
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